2021.02.13
【コラム】長野県のりんご栽培の歴史を紐解く
りんご栽培の始まり
長野県でりんご栽培は明治7年(1874年)に内閣府勧業寮(責任者は田中芳男、感動!)が配布した3本の苗木からスタートし、ゆっくり県内に広がっていきました。松川町で「果樹栽培100年」と数年前に言っていたので、恐らく明治~大正の間に広がっていたのでしょうね。
この当時の栽培の中心地は何といっても長野盆地。善光寺参詣客相手に売ることができたそうです。この頃の長野県の主要品種は「倭錦(Ben Davis)」でした。想像ですが、晩生のりんごで年末の参詣客に売るためだったのでは?そのために「善光寺りんご」と名付けられてんですね。
時代は少し移って、昭和初期。世界恐慌のせいで長野県最大の産業であった養蚕業は大打撃、超不況に。この時に川の自然堤防の上の桑の木まで一斉にりんご転換されたそうです。前述の「善光寺りんご」は、市場からは「まずい」と言われておりました。そこで、日本のりんごの最先端地・青森をまねて、昭和10年には「国光」「紅玉」への更新がほぼ完了したようです。
戦後、おいしいりんごを追い求めて
第二次世界大戦のころ、昭和18年に行政指導として果樹園転作令(米・麦の増産のためです)が発令されました。このせいで一時果樹栽培は停滞しました。戦災で壊された化学工場が、化学肥料を作ることで経済も農地も回復していきました。
昭和20年、「りんごの唄」大流行!もちろん、椎名林檎の「りんごのうた」(2003)ではありません。並木路子さんという方の唄です。皆さん聞いたことはありますよね。昭和25~35年頃には新しい農薬も開発され、共同防除組合が出来てきました。「SS(スピードスプレイヤー)」が出てきたのもこの頃。病害虫防除が容易になってきました。
高度経済成長とともに果樹が高値で取引され、食糧事情もやや安定して、さらに果樹需要は増大しました。ところが昭和38年、バナナ輸入が自由化。さらに昭和39年、41年には、みかんの大豊作により、りんごの価格は暴落。昭和43年、みかん・イチゴの大増産。バナナ輸入増。これらにより、りんごの価格が大暴落!いわゆる「山川市場」(山や川へ大量投棄した)を生んでしまいました。これを機に再度、品種更新が行われ、日本で選抜育成された品種になっていきます。
「国光」「紅玉」の時代は昭和49年まで。次に登場したのは香り高いデリシャス系品種!ところがデリシャス系の時代は短かった。昭和52年、デリシャス系の価格が暴落。再再度、品種更新により、いよいよ「ふじ」の時代が到来します。昭和57年にふじの出荷量がデリシャス系を追い抜き、現在にいたっても「ふじ」最強は続いています。味も色も日持ちも最高ですから。
このように日本のりんごの品種更新はたびたび行われてきたんですね。本当に簡単に書いてしまっていますが、これらの時代の中ではとても多くの災害があり、病気が大流行して、ものすごい苦労があったことがうかがい知れます。それでもおいしいリンゴを求め続けてきた農家さんを尊敬します。
りんごの品種、なんと169!
日本では明治時代に169品種のリンゴが導入されています。びっくり!
少しご紹介すると、
「国光(Rolls Janet)」こっこう
「紅玉(Jonathan)」こうぎょく
「紅魁(Red Astrachan)」べにさきがけ
「柳玉(Smith Cider)」りゅうぎょく
「倭錦(Ben Davis)」やまとにしき 善光寺りんご
「紅絞(Fameuse)」べにしぼり
「祝(American Summer Pearmain)」いわい
「旭(McIntosh red)」あさひ
これらが明治から昭和初期に作られたようです。
長野で、善光寺りんごからCiderを作って、ラベルには”ベンデイビス”と書いたらカッコいいかなと考えたけど、このリンゴ全然美味しくなかったらしいです。そうは言っても、食べてみないとわからないから作ってみようかな、とも思います。
WRITER
竹村 剛
Tsuyoshi Takemura
(株式会社VINVIE 取締役 栽培・醸造担当、南信州シードル協議会 会長)